― 本格的に受験勉強に取り組む前に、省吾には一つだけ、どうしてもはっきりさせておきたいことがあった。 ―
思い起こせば、ずっとずっと小さい頃から、「良い大学に行け」と言われてきた。
ようやく今になって、自分でも受験勉強に向き合おうとしているが、これは誰のための受験なのか?
俺は親の言うように、良い大学に入ればそれだけで人生が開ける、とは思っていない。
それなら、なぜ良い大学を目指しているのか?
「学ぶ」とは、
・自分の頭を鍛えること
・考える力を付けること
というところまでは自分でも分かってきた。
もちろん、学歴が良いことで損はしないだろうが、その先の未来がどうも見えてこない。
「もっと自由に生きたいだけなのに・・・」
そうか、自由か。
それこそ小さい頃から、ずっと、自由とは何か、どうしたら自由になれるか考えてきた。
「自由には責任が伴う」というくらいだから、自分で決めて、その結果も自分で受け止めることが基本なんだろう。
要するに自分の力で生きて行くということだ。
それならば、自分の頭を多少なりとも磨いておく必要があるのは間違いない。
そのために、最高の教育を受けることができる環境で学ぶというのも、外れてはいないはずだ。
受験が親の希望であることは言うまでも無い。
しかし、
自分らしい、自由な生き方をしていくために、今、学ぶことの理由は確かに自分の中にある。
「よし大丈夫だ、この受験は俺のためのものだ。」
つづく・・・
photo credit: Thiago Araujo / Oclinhos via photopin cc
あとがき
「自分のために生きる。」
これは自己中心的な生き方をする話ではありません。
自分の「為」に生きるということです。
「為」という言葉には、原因や理由という意味があります。
禅問答のような話になりますが、
自分の中に、「原因や理由」がある生き方をする、というのが今回の話の趣旨です。
それは、「自分」の中に「由」があるということにも繋がります。
「由」も原因や理由という意味をもっています。
すなわち自由です。
自由な生き方というのは、自分の中に理由がある生き方であり、その理由のために生きる道を指していると思います。
だとすれば、自ずとすべての結果はあなたの中にあることが原因だったということになります。
これこそが、よく言われる「自由には責任が伴う」の中身です。
どんなことでも、一度は本当に自分が心から納得しているか、確認する時間が必要です。
その上で、
自分の中から出た理由に従って、誰かに尽くして行こうと考えるならそれもあなたの自由です。
万が一うまくいかなかったときでも、自分で納得して使った時間なら悔やまずに済みます。
どんな生き方をしても、自分の人生は、自分の人生です。
ちゃんと考えなかったことや、しなかったことも、すべて突き詰めれば、自分が「しない」と決めたことになります。
結局最後はすべてが自分の責任です。
仮に、理屈上では誰かの「せい」に出来ても、
そして周りの人が全員そう認めてくれたとしても、
うまくいかなければ、その結果を自分で受け止めることには違いありません。誰かの「せい」でも本当の意味で責任をとってくれる人など、あなた以外にはいないということです。
しかし、見方を変えれば
原因が自分のものであればこそ、良いことの責任(成果)もあなたのものです。
自分で決めて、自分で考え、自分でその成果をすべて享受する人生も可能になるということです。
是非、あなたの自由のあり方を考えてみて下さい。
いつもお読み頂きありがとうございます!
※この物語は、実体験をもとにしたフィクションです。
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